だが危ないゆえに愛されているのである。
中でもポピュラーで甘く、危ないのは、レモンパイではなかろうか。
レモンパイは、アメリカ経由である理由と、酸味と拮抗させる意味で糖分過多になるのだろう、かなり甘い奴が多い。
現代的ケーキではなく、廃れいくケーキであるが、明快な甘さを求められていた時代のちょっと下品さがいい。
例えば田原町の「レモンパイ」は、古き時代の空気を味わえる店である。
このレモンパイの現代の解釈が、京橋「イデミ・スギノ」の「レモンのタルト」だろう。
タルト生地の上に、淡黄色のレモンクリームがぽってりと敷き詰められ、カルダモンが散らされて、レモンのコンフィが飾られたメレンゲが重ねられる。
口に運ぶと、メレンゲは刹那に消え、クリームは舌の上を軽やかに流れていく。柔らかな甘みと意志の強い酸味、途切れの無い香りが漂い続けて、目を、口を閉ざす。
太陽を濃縮したようなレモンが心に染み入り、ふくよかな気分と共に感謝の気持ちが湧きあがる。
「プランタニエール」というレモンと苺のケーキもある。
ジェノワーズの上にバルサミコソテーした苺が入ったレモンムースとジュレをかけた苺ムースが重ねられたケーキである。
苺とレモンの出会いが優しく、苺、レモン、バルサミコという三種の酸味が絡み合って妖艶を演じるケーキである。
他にも、パティシエがレモンに敬意を表した名ケーキが数多くある。
ヘーゼルナッツのコクとレモンの爽やかさが調和する、四谷「マダム・ミクニ」の「ノワゼットシトロン」。
レモンクリームの酸味とミルクチョコレートの甘みのコントラストが、互いを引き立てる、銀座「ルショワ和光」の「ラクテ・シトロン」。
タルトレモンクリームがアーモンドクリームやチョコレート、フランボワーズと共鳴する、大阪「ラプラージュ」の「タルトレットシトロン」。
また西麻布「ル・スフレ」では、スフレの真ん中に穴を開け、レモン果汁のソースとクレーム・シャンテイを流し込む。
むっくりと立ち上がった赤ん坊のようなやわな食感を、レモンのソースがきりりと引き締める。
頬ずりされながらのハグ。
褒められながらの叱咤。
夢に漂流しながらの目覚め。
こうしてレモンは、スフレの甘美を際立たせるのである。
イタリア料理では、千駄ヶ谷「マンジャ・ペッシェ」の「デリツィァ・アル・リモーネ」がいい。
リモンチェッロ(レモンリキュール)風味のカスタードクリームで挟み、さらに上から生クリームを加えたカスタードクリームをとろりとかけた一皿である。
シンプルながら、食べるたびに清爽な空気が鼻に抜けて、にんまりと顔が崩れる。
「うまいっ」。
酸いも甘いも噛み締めた大人こそが相好を崩し、子供の心で叫んでしまう味わいである。
明瞭な酸味と心の奥底を弾ませる澄んだ香り。
レモンは二つの武器を駆使して、我々の感覚を揺さぶる。
武器の性能を引き出すかどうかは、職人の手にかかっている。
なにせ気位が高いので、簡単にはいかない。
だが、前述した菓子たちのようにいけば、レモンはよそよそしさを脱ぎ、持ち前の気品を発揮して、我々を高みへと誘うのである。